「勝手におやりなさい」
大学の入学式で言われた言葉。衝撃的に頭を揺さぶった言葉。
「勝手におやりなさい、
この言葉が命令のように聞こえる事を恐れながらも、
この言葉を送ります」
大学に行けば何かが与えられると思っていた。自分の方向を漠然と指し示すような何かが。
なのに送られたのは上記のような言葉。
私は自分を恥じた。全く馬鹿だ。だってこれは命令ですらないのだ。
「勝手にやるかどうか」も含めて勝手なのだから。
私はやりたいことが無いわけじゃない。むしろ沢山あって困るくらいだ。でもそのバラバラの「こと」がどう繋がるのか、
繋がった「こと」たちが私をどう変えるのか、
全く見当がつかない。
文化を概して見る授業、子供の発達心理学、文芸サークルの読書会…
文化を構想する、なんてたいした目標を掲げた学部にいるものの、
自分のアイデンティティーさえ見失いそうになる。
自由の持つ圧倒的な不自由さに今は立ちすくむばかりだ。
でも同時に勇気づける言葉も渡された。それは漱石の講演の一部を引用したもので、
大学の中で「霧の中にいるような」気分であると、
「袋の中に閉じ込められたような」心持であると言っていた。
ああ、悩んでいてもいいんだ。そんな風に思えた。
私はこの四年間、悩むことから逃げずにいたい。
悩みの中にいることは、陰鬱で、窮屈で、どんずまりのように思える。
でもその中でしか見えない光もきっとあるのだ。
そして初めて「何か」を構想し、私は「何者か」になる事が出来る。
だから、悩もう。沢山よもう。最後に、やっぱり、沢山書こう。
以上はわたしが五年前に書いたブログからの引用である。
「勝手におやりなさい」、当時は痛烈に胸に染みた。どう歩けばいいかも分からない、右も左も分からないのに、「さあ、好きに動いてごらん」と言われるようなものだ。見守りつつも突き放すような親鳥の心。そして大学は大きな巣だ。
しかしその「自由の不自由」をこえ、わたしはよろよろと歩き出した。おぼつかない足取りだった。はじめは友達の作り方から、単位の申請の仕方、「上手で楽しい」サボり方。後輩が入ってからは、先輩の作法。好きなものの探し方。
そして、短歌に出会った。言葉の息の仕方を覚えた。ようやくわたしは今、雛鳥として鳴き始めた。歌をうたう。何者か、として。ミラサカクジラとして。ここに存在している。
どんずまりを超えて、命懸けで歌をつくって、うたっている。
ねえ、五年前のまっさらなわたし。
ちゃんとわたしは、何者かになったよ。
よく歩いたね。走ったね。転んだね。
お疲れ様です。
でも道はまだまだ続く。少年漫画の終わりのように。「俺たちの戦いはこれからだ!」。
戦う相手は、弱気な自分ですね。
卒業、おめでとう。ありがとう。