ミラサカクジラの短歌箱

歌人・ミラサカクジラの短歌や雑多な日記。

人魚とペガサス

(お題・「目をそらさないで」から始まる小説)

目をそらさないで。水槽のなかのわたしをみて。

昨日までなかったヒレは、モルフォチョウのような鱗をきらきら光らせている。わたしは、人魚になった。電話口で「あなたとなんか、二度と口を利かない」と言い放った後に布団にもぐって、朝になったら人魚になっていた。布団は、大きな水槽になっていた。

 

「どうしたんだ、なんでこんなことに」いくら電話をならしても答えないわたしに、慌てて駆けつけたきみは、青白い顔に汗のつぶを散らしてそう言う。人魚になっちゃったの。そう答えたくても、口は動かない。代わりにヒレをちゃぽん、と動かした。「きみは本当に優花なのか」ちゃぽん。「そうなんだな」ちゃぽん。それからわたしは、水の音だけできみと会話をした。はい、と、いいえ、しかない会話。それはとても穏やかで、どうして昨日あんなことを言ってしまったのか、わからなくなった。きみはぽつぽつと、独り言のように言葉を紡いでいく。はじめてのデートで、わたしが転んだこと。わたしのつくるお弁当は彼にはすこし小さくて、それでもとても満たされること。誕生日にあげたクローバーの種が、発芽したけれど全部三つ葉だったこと。メールの絵文字が苦手だったけれど、最近つかうのに慣れてきたこと。いつも駅でさよならするときに、さびしいから手を振らないようにしていること。

 

話しているうちに、彼は泣き出してしまった。わたしも泣きたくなった。でも涙も嗚咽も出てこなかった。それがつらくて、わたしはヒレを顔に向けて動かし、顔を水だらけにした。意図が伝わったようで、彼はすこしだけわらった。静寂だけが、2LDKに満ちていた。風がカーテンにあそんで優しく翻った。

「俺たち、これからどうすればいいんだろう」わからなかった。でもわたしは、今のわたしもすきだった。だってあなたを傷つけない。酷いことも、言わない。困らせるような泣き言もでてこない。一緒にねているときに蹴っ飛ばす足もない。このままでも、いいかな。べつに、いいんじゃないかな。

そんなわたしを見透かすように、彼はわたしの濡れた手をつよく握りしめる。「俺は優花の声がききたい。どんなにひどいことを言われてもいい。やつあたりも、わがままも、言っていいんだ。優花はやさしいよ。いつもやさしくて、がまんばかりして」そしてゆっくりキスをした。ぱちん、と何かがはじける。

 

瞬きをすると、2LDKの私の部屋は消え去って、誰もいない野原にわたしたちはいた。下を見れば足が生えている。ああ、戻った。けれど、まだ言葉はでない。話すのが、こわい。「これは夢なのかな。俺たち、夢を見てるのかな」どうだろう。でも、もし夢ならば。「あなたがすき。きみと夜空を駆けたい」

そして2人は、どこまでものぼっていく。人魚は、もういない。夜空にはペガサス座が、今日もきらきらひかっている。